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2008-06

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「イースタン・プロミス」 (2007年/英・加)

随分昔に「デヴィット・リンチ ワールドへの招待」と題し、さも続篇があるかのように書いておきながら放置してしまったという苦い経験(→反省)を踏まえて、「デヴィット・クローネンバーグ 鬼才監督の系譜」と冠した複数部構成の記事を書こうかと思ったが踏みとどまった(→再度反省)。

と云うことで、純粋に「イースタン・プロミス」のみを話題にする。
この作品、はっきり云って個人的に本年度公開映画ベスト5に入ってくるだろう秀作だと断言できる。
それほどにデヴィット・クローネンバーグ×ヴィゴ・モーテンセンが生み出した芳醇な香りと劇薬の妙味を醸し出す本作は、すごい。

クリスマス目前のある夜に運び込まれてきた瀕死状態の少女から女の子を無事取り上げた助産師のアンナは、そのまま死んでしまった少女の家族に赤ちゃんを届けてあげようと考えるが、手がかりは少女の日記ひとつ。その日記に挟まっていた名刺に記載されていたレストランに行ってみると一見温和そうな老人が迎え入れてくれるが、実は彼はロシアン・マフィアのボスだった。一体、赤ちゃんを産み落として死んでいった少女はロシアン・マフィアと如何なる関係があったのか......!? そして何かと助けてくれるマフィアのお抱え運転手ニコライ(;主人公)は一体何者なのか......!?

クローネンバーグの初期作品から鑑賞している者にとっては、前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』からの方向転換には少し驚いたことだろうし、実際そのような声が多く聞かれる(本作もしくは前作『ヒストリー~』からの鑑賞(予定)者は関係のないところだが、むしろ所謂「社会派」映画と誤解しないためにも、そしてより深い理解のためにも、初期作品の鑑賞は薦めたいところである)。
確かに一見したところの作風は目に見えて異なっている。B級ホラー的な要素は悉く後退しているし、独自と評された世界観に基づくグロテスクな(特に異様なまでに固執して描いてきた内臓)描写も見られない。その意味で当然、作風の変化は叫ばれうるところだろう。

しかし、本当にその根本からの方向転換があったと見なすことはできるのだろうか?

人は概して確固たる自己が存在していることを無意識のうちに前提とし、したがってその恐怖の対象となるのは外部からの干渉・侵食といったものを想定しやすい。それに対してクローネンバーグが描いてきたのは云わば内部破壊の恐怖といったものだった。その最たる表現が内臓描写として特に私たちの注目を引くことになった。
そこで思うのは、その衝撃性ゆえに私たちはそれを本来主張されたい範囲から逸脱して、肥大化させて認識していたのではないかということである。すなわち、確かに表現方法は変わったと云えるが、監督の根底に変わらず脈々と流れる意思は存在しているのではなかろうか。

『ヒストリー・オブ・バイオレンス』では記憶・過去といった、個人に内蔵される究極的なものを扱っていたし、今回の『イースタン・プロミス』では大筋を眺めてみると、マフィア組織の内部破壊のストーリーと云えなくもない。
だからむしろ直接的に独自性を主張する表現を間接的にする老練さと、その表現を回避することで際立つテーマ性と風格が加わったと見るべきなのではないだろうか。
つまり、結局云いたいことは、作風は“変化した”と主張されることには語弊があり、“進化した”と認識したいということだ。
まぁ、これ以上の細かい分析はディープになり過ぎるので避けよう。

最後に、この映画の数ある美点のなかから特徴的なものを二つ挙げておこう。
まず(ヴィゴが多分に貢献したと云われる)ロシア・マフィアの風習からロンドンの闇(イースタン・プロミセス=東欧組織の人身売買)に至るまでのリアルな表現と、それでも失われることのない優れた物語性(娼館やレストランの色使い(ここに監督独自の感覚は強く残る)や、ファミリーになるための承認審査シーン、そして語られることのない主人公の経歴等々)が抜群のバランスをもって鑑賞者の脳を絶えず刺激する。
そして計算されたように効果的なバイオレンスシーン。これがなければ実はとても甘い物語になっていたかもしれないところを、巧みに引き締めている。
特に既に言い種になっている風呂場の格闘は筆舌に尽くしがたい程の迫力がある。あえて最新の技術を使わず、古くからの人間の目線に立ったカメラワークと、冷徹な通常時と対比的に熱いファイトを果敢に挑戦したヴィゴに拍手を送りたい。

なるほど沢木耕太郎氏がエッセイでこの映画を「『ゴッド・ファーザー』を思い出させる」と評したのも頷ける。『ゴッド・ファーザー』シリーズのように三部作化を熱烈希望!
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「真珠の耳飾りの少女」 (2003年/イギリス・ルクセンブルグ)

1665年のオランダ――父親が失明してしまい家族を支えるために女中奉公に出ることになった17歳の少女グリートは画家フェルメールの家で働くことになる。そして真面目に働くグリートは次第に複雑なお屋敷事情を知ることになる。フェルメールの才能を高く買う大奥方、独占欲の強い奥方、いじわるな娘、気難しい芸術家フェルメール、そして屋敷に出入りするスケベなパトロンと親分肌の女中頭(?)。そんななか、グリートはその美的センスを買われ、密かにフェルメールの仕事を手伝い始めるのだが......

アート系の映画というものに対する個人的な興味は尽きないものだけれど、残念ながらその手の映画は制作陣の独りよがりな自己満足に染まってしまい、概して不出来だと感じられてしまうものが多い。しかしながら、この『真珠の耳飾りの少女』はそね不名誉な定説から一線を画している。
果たしてその要因とは何なのだろうか?

思うに、一人の(アート志向の)監督が題材となる一人の芸術家を選ぶという時点で、既に自己を重ね合わせてしまいがちだ。そして映画を作り上げていく過程で、思い入れはどんどんと増していく。そして、いざ映画が完成されてみると他人に理解の余地を与えない自己完結的な“傑作”に仕上がっている。

しかし先ほども述べたように、当該作品はこの難を逃れている。
その一つの大きな要因は、主人公をフェルメールその人にせず、彼が描いた少女にしたことだ。そのため稀代の芸術家フェルメールは、少女の目を通していくらか客観化される。その意味で、女中奉公に来た何も分からない少女が、仕事を学び、奉仕先の家族模様を静かに観察し、畏怖すべき存在であった主人から絵を学び、終にはその主人に思慕の情を抱くといった過程を軸に描かれていることは、こちらの予期した物語と異なるものとなり面白い。

また加えて演出の妙は、少女とフェルメールが(あくまでプラトニックではあるが)官能的な関係に陥っていく中で、奥方はいきり立ち、嫉妬の炎に狂う。一方少女は自らの立場を鑑み、一歩退いたまま冷ややかにそれを眺めているように見えるが、心の中では言い知れぬ葛藤が渦巻いているのだろう――その時限り自分を想ってくれている青年のもとを訪れる。この対比が見事。もちろんこの少女を好演したスカーレット・ヨハンソンの功績も大きい。
またそんな混乱する家族関係の中で、もう一人静かに、しかし切実に嫉妬している者――フェルメールの幼い娘の存在が作品に奥行きを与えていると云えよう。

画家が絶えず日常の風景を絵画として切り取ろうとしているように、監督こだわりの美しい油絵の如き映像が彩るこの映画は、時としてはっとするほど純粋で、また時としてぞくっとするほど官能的な世界を展開してくれる。この西洋絵巻物に酔いしれることは必至であろう。

「JUNO / ジュノ」 (2007年/米国)

昨年度のアカデミー賞で「16歳の少女が妊娠してしまうと云う唯一明るい題材の映画です」と云ったジョークで紹介された『JUNO』は、確かに陰鬱な作品群の中で異才を放っていた。

勿論それは長篇は未だ2作しか撮っていないにも関わらず、長篇処女作『サンキュー・スモーキング』は好評を博し、本作ではアカデミー監督賞候補にすら名を列ねてしまったジェイソン・ライトマン監督(『ゴースト・バスターズ』等で有名なアイヴァン・ライトマン監督の御子息!)の輝かしい才能と、コピーライター→ストリッパー(!!)→脚本家(本作でデビューにして当該脚本賞受賞)と云う異色の経歴を持つディラブロ・コディと云う巷を賑わせるのも納得する話題性もある。
しかしそれ以上に、冒頭のジョークにもあったように決して明るくない――否、むしろシリアスに描かれがちな題材を、決して出しゃばらないニュートラルな主張と、軽妙酒脱な味付けでハッピーなコメディに仕上がっていることに、この映画が話題にされるべき本質がある。

16歳の“普通の”少女が「嫌いではない男友達」と関係をもってしまったことから妊娠してしまい、てんやわんやの騒動となるなかで、新しい世界を自分のものにしていく――。

本国アメリカではこの映画を観た「中絶肯定論者」と「中絶廃止論者」が共にこの映画を支持しているところが面白い。
主人公は“呪いの十字架発現”こと妊娠が発覚すると、まず中絶を考えるが、知人に「赤ちゃんにはもう爪が生えている」と云われて急遽出産を決意(中絶のための施設で神経質になっている半母親たちの描写が印象的)。そしてフリーペーパーの“赤ちゃん募集コーナー(ペットの広告の隣にある)”に載っていた“クールな”夫婦に、赤ちゃんを“絞り出すように”出産した後に譲渡することに決める。
確かにこの流れからは、双方の主張が汲めとれそうである。しかし、どちらを意図したのかを議論することは無粋であり、むしろ選択肢があると云う自由を大切にしているのだろう。

そして作品世界の中核として忘れてはいけないのが、主人公JUNOのキャラクターだろう。一見つっけんどんで、ものを考えていないようで、お菓子で自殺を図る(?)ようにとても神経質で、養子縁組みを整えてから親に妊娠の事実を報告するような狡猾さを持ち合わせていたりする。またヘビメタを崇拝し、マニアックなカルト映画『血の魔術師』に興奮する生態、今まであらゆるメディアでリアルに描かれることのなかったその空気感は絶妙だ。
つまりこの映画の強みは、愛すべき主人公と彼女を包む温かい両親や友人たちが見せる人間性にあると云える。

勿論、タイトルロールの映像での『ハード・キャンディ』のパロディだろう赤フードや、「変な二人」と一蹴したカーペンターズへの同化といった映画好きが楽しめる細部も充実している。

「叫」 (2006年/日本)

久しぶりに書こうと思い立ったものがホラー映画と云うのも、なんだか陰々滅々としていて甚だ決まりが悪く感じてしまうが、まぁ仕方がない。
なにせ殺伐とした毎日を過ごしているのだから。

さて、早速本題に入ろうと思う。この映画は『LOFT』や『アカルイミライ』で有名な黒沢清監督作品で、もちろんこれまでのように観念的に複雑な作品世界がホラー要素と溶け合って構築されている。あえて違いを指摘するならば、そこに今回はミステリー要素が加わっているが、そこは作品世界に破綻をきたさないためにも理論的な謎解きといったものではなく、蓄積されていく謎のうえに解釈が成り立っていくというものなので、むしろ変に意識しなくても良いだろう。
むしろ鑑賞後にこの映画に拒絶反応を起こしてしまう人の多くは、そこに理論的な展開を求めてしまったことが原因なのだろう。

あるベテラン刑事が、遭遇した事件の身元不明女性の死体について捜査するうちに、葬り去った自らの過去が無意識理に現実とシンクロしていき......

そう、この映画はサスペンスとミステリーが溶け合っているところがミソなのだ。つまり両者はカチッと各々のピースが噛み合わさったような調和を構成しているのではなく、あくまでバラバラの小要素が渾然一体と絡み合い、混ざり合って、一種のカオス状態の様を呈しているのである。そして鑑賞者としての私たちがそこに何らかの絵柄を読み取るものなのだと思われる。
そしてこのカオスとしての状態こそが、生と死の狭間で彷徨う日本の霊の概念と合致し、更に云えば和製ホラーの特色、すなわちショッキング描写の連続ではなく、人間の妄念とでも云うべきものの視覚化を通して恐怖をじわじわと神経を侵食させていくという特色を上手く理解しているといえる。
全ての個々人(日本人)の根底部分に共通するであろう霊への恐怖感を通して、確信犯的に混迷する社会を映し出しており、ゆえに「理不尽」と評されることはむしろ「我が意を得たり」といったところなのだ。

しかし最後に繰り返される「私は死にました。だから皆さんも死んでください。」という叫びは、唯々くどく、興ざめな感も否めないのが甚く残念だった。

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プロフィール

晋撰堂

Author:晋撰堂
晋撰堂は京極夏彦の京極堂シリーズにかぶれていた頃に命名。
自分の名前にも由来していますが、文化的娯楽作品から気が向いたものを取り上げてレビューを書いていこうと思います。たまに雑記と称して日々の雑念も放出します。
ただ問題は、ほとんど更新をしないということ。休眠状態を常としている現状ですが、もっと気軽に書けるよう努力してみようかと思ったのも、本日の気の迷いかもしれないです……

コメント、リンク等も何卒御気軽に。

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