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2008-02

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恋人までの距離(1995年/米ほか)&ビフォア・サンセット(2004年/米ほか)

次第に冬から春へと衣替えを始めた東京の町並み――。
冬には少なくとも2つ以上の“それ”に相応しいイベントがあったにもかかわらず、その時分には沈黙を守り、
―何をいまさら
と云われそうだけれども、今回は恋愛映画です。

―恋愛映画で何かおすすめのものはない?
と訊かれる時ほど答えに窮することはありません。なぜならば①“恋愛映画”と指定するからにはロマンティックコメディになってはならず、純粋な恋愛モノである必要があり、②複数人で鑑賞する場合を想定してなるべく気まずくなるようなシーン(例えば欧州的な“熱愛”や米国的な“サービス”)は控えたい。そして③一応僕に訊いているのだから安雑誌によく紹介されているようなベタな映画はNGでしょう。
そんなとき、以上3つの条件をクリアしている稀な恋愛映画が「恋人までの距離」とその続編「BEFORE SUNSET」です。

>「恋人までの距離」
ブダペストからパリへ向かうヨーロッパ横断鉄道の車内から物語は始まる。車内に響き渡るような激しい口論を繰り広げるドイツ人夫婦を避けて偶然座った席で出会ったフランス人大学生のセリーヌ(ジュリー・デルピー)とアメリカ人旅行者ジェシー(イーサン・ホーク)。
ふとしたことから会話が始まり意気投合した2人は、ジェシーの「帰国する翌朝までの時間をウィーンの街で一緒に過ごさないか」という一言でウィーンの街で途中下車する。暮れなずむ古都をあてどなく歩き、とりとめなく会話する二人。互いに強く惹かれ合っていくのを感じるが別れの時間が刻一刻と迫ってきていた......

あまりにも奇跡的な出会いも、ウィーンの町並みに溶け込まれていくようで許されてしまいます。
それは悠久の古都ウィーンに流れるゆっくりとした寛容な時間の、束の間の一時――この対比のなかに見事に切なさが演出されているからかもしれません。
そして尽きることのない会話がお洒落です。ひとつひとつの思い出話を語るときには情景が浮かび上がるような温かさが込められ、互いの人生観を語るときには相手へのちょっとした探りを潜ませており、妙にリアルに感じられます。
互いの視線を合わせたいのに合わせられない心理を見事に描いたシーンに代表されるように、若いゆえの切なさを美しく切り取った秀作です。

>「ビフォア・サンセット」
運命的な出会いから9年が経った。忘れられない女性を想って9年前の出来事を小説にしたジェシーはキャンペーンツアーでパリを訪れ、セリーヌに再会を果たす。
アメリカへ帰る飛行機の時間まで、あの時からいまに至るまでの積もる話を歩きながら語り始めた二人は......

「恋人までの距離」からは実際に9年のときが経過しており、お互いの姿も、思想も、言葉もスレてしまい現実的になっています。もしかしたら実際に9年のときを置いてこの2つの映画を鑑賞したひとならば自らの身にも感じるところが多いのかもしれません。
前作の現代は「BEFORE SUNRISE」です。このときの関係が二人の年齢と恋愛への関係を象徴しています。
これに関しては深く語ることは避けたいと思います。ジェシーの最後の台詞のように
―I know...
と云って終わるのが粋というものでしょう。
この9年がかりの美しすぎる確信犯的連弾を心おきなく御堪能いただけたならと思います。
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潜水服は蝶の夢を見る (2007年/仏)

雑誌「ELLE」の編集者にして美しい妻と子供三人をもつジャン=ドミニク・ボビー(マチュー・アマルリック)。ファッション業界特有のエレガントでゴージャスな仕事に明け暮れ、愛人もいる。
そんな文字通り“完璧”な人生を歩んでいたジャンだったが、突如としてロックト・インシンドロームという難病を発病し、全身麻痺に陥ってしまった。手を握ることも、唇を動かすことも出来ない。唯一動かすことが出来るのは、左目だけ。
不自由な潜水服に身体を押し込められ、深海の彼方へと落ちていくようにジャンの心もまた深く沈んでいくように思われた。しかし言語療法士(マリ=ジョゼ・クローズ)が瞬きだけで言語を伝達する手段をジャンに教えたことで、彼は自分の人生に向き合っていく。

この自分の人生に向き合う手段としてジャンは自伝を書く(実際には文字を伝え記録してもらう)。本を著すという創作的行為によって常にジャンの歩みは未来へと向かっており、決して過去に囚われている訳ではない。だからこそそれまで“うっとおしい”と思っていた妻と子供と戯れる休日が尊いものとして感じられ、“何もない”と思っていた外の風景が美しいものとして目に映るようになっていく。
この前向きであるということ、自分を大切にするということ(決して自己中になるということではない)がどれだけ周囲の人々にとって励みに、幸せになることか。現代の病人や老人、もっと云えば何の支障もなく日々を生きている者のほとんどが、この心遣いの第一歩を忘れているのではないかということに気付かせてくれる。
また映画としても、ジャンが前向きであることで、観客は胃の痛むような思いを終始強要されることはなく、優しい気持ちで見守ることができる。

この映画ははじめ病床に横たわるジャンの目線で描かれていく。目を開けたばかりであれば周囲の光景は霞み、瞬きをすれば一瞬暗くなり、涙が出れば映像は滲む。これは大変に革新的で驚かされる表現であるが、あまり長くこの状態が続くと閉塞感も与えてしまう。
また必死で文字を一文字一文字伝えていく様子が執拗に描かれ、重苦しい空気を感じてしまうかもしれない。
したがってこの映画を観る人は、“辛抱づよい人”であることが要求される。

そしてそれに加え、想像力が豊かである人は、十分にこの映画を楽しむことができるだろう。
ジャンに与えられた自由は、左目の瞬きのほか、記憶力と想像力であった。この想像力を最大限に発揮して、ジャンは蝶の羽を得て空間的にも、時間的にも自由に飛び回る。
たとえ自分の身体に縛り付けられようとも、想像力があれば、無限の自由が約束される。
この瞬間、ジャンの酸素チューブに繋がれた潜水服は、へその緒に繋がれた赤子のように純粋な世界に包まれている存在であるように僕には感じられた。
この意味で、足腰が立たなくなって家から出られない年老いたジャンの父親が
―おまえも私も似た者同士だ。
と云った、その言葉は切実である。
なぜならば、いまのところ不自由なく暮らしている私たちとて何らかの囲いの中に拘束されているという意味で“似た者同士”であり、そして同様に自らのたった一リットル程の脳が活動しているかぎり、無限に世界を広げていくことができるのである。

目論んでいた現代版「モンテ・クリスト伯」の創作は諦めざるをえなくなったが、それに代えてジャンは自伝を綴った。これによって彼は“復讐”よりも美しく自らの人生を取り戻すことができたのだろう。

さくら 西加奈子著(小学館)

これは美しく、尊いものをめぐる物語だ。


東京の大学に通う主人公の“僕”はある年の暮れ、実家に帰ることを決意した。それは“家”から逃げた父親から急に届いた手紙がきっかけだった。

―年末、家に帰ります――おとうさん

スーパーのチラシの裏側に書かれたそのひどく薄くてやや右肩上がりの文字は、“僕”になつかしさを与えるには十分だった。
そして“僕”は回想する――僕等家族のヒーローだった兄が生きていた頃の幸福と、兄が突如として死んだ後の崩壊を・・・・・・


このように書くとひどく暗い物語のように思われるかもしれないが、そのようなことはない。むしろ読み始めてしばらくはとてもほのぼのとした印象に包まれる。それは穏やかな父と美しい母、優しくて“超”がつくほど格好良い兄と美しいがワイルドな妹、それに愛嬌のある犬サクラに囲まれた“僕”のこれ以上ないほどに幸福な日常が描かれているからと考えられる。
しかしそれ以上にその大きな要因となているのは作者のカラフルな色彩感覚を駆使した鮮やかな比喩表現によるところが大きいだろう。
例えば物語の冒頭で読者を引き付ける一文には、広告が次のように表現されている。
「色の褪せたバナナの、陰鬱な黄色。折りたたみ自転車の、なんだか胡散臭いブルー。そして何かの肉の、その嫌らしい赤と、脂肪の濁った白。」
文に従って次々に連想を膨らませていく読者は、飽きることなく、いや、むしろ日常生活が実は意外にファンタジックであったことに驚きつつ読み進めていくことができるだろう。
そしてこの鮮烈な比喩表現は、見事なことにこの本のテーマ自体を比喩するかのような機能さえ有しているのだ。

冒頭に述べたことだが、この物語は、美しく、尊いものをめぐる物語だ。
美しいもの、特にそれが目に見えるものであれば、それが輝けば輝くほどに対極にある醜いものはその影に深く深く飲み込まれていき、同時に心を深く深く傷つけられてしまう。
それは不作為にして仕方のないことだ。しかしその事実に美しくあるものは自覚的でなければならない。
一方、美しいもの、特にそれが不可視のものであれば、それは全てのものに平等に訪れる機会があるはずだ。しかしその美しさが意識しなくなるほどに常態となったならば、次の瞬間、それは崩壊するかもしれない。そして儚くも突き落とされた人の心を傷つけることだろう。
だからこそ、美しいものはよりいっそう尊いものとして認識しなければならない。
人はこの美しいものと醜いもものの狭間を行ったり来たりしている。
そしてその時々で歓喜したり、絶望したりしている。
これはとても自然な営みなのだろう。しかしもし、この運命の揺さぶりに耐え切れなくなることがあれば、この本を手に取り、読み終わったあとで、自分は運命に対し受け手であったのか、それとも投じ手であったのかじっくり考え、視座を定め直すことができるのかもしれない。

映画監督・市川崑

誠に残念です。
2008年2月13日午前1時55分、監督市川昆氏が肺炎のため東京都内の病院でお亡くなりになりました。
僕はまだ浅学にして市川作品に触れた機会は数えるほどしかないけれども、横溝正史の金田一シリーズを映画化した旧五作品に限るならば大ファンだった。
現代的な感覚に染まりきってしまっては中々理解することのできない金田一シリーズのムラ社会的世界観を見事に映像として焼き映している傑作だ。閉塞的な人間関係。「読みすぎる」ために凍てついた空気。ぶちまけることができずに堆積していく怨念。そしてそんなことに構うことなく奔放な美しさを見せる自然風景――。もちろんこれは作風に合わせて重苦しい印象を強調しているだけなのだけれども、この世界観を創り出すことが如何に難しいことか。共時的に虚構でしかないことを自覚した真実性の投影と映画を意味づけるならば、まさにそれを理解している数少ない映画を市川監督幾つも世に送り出してきたのだ。
それ故に演出における芸術表現にも一流の拘りが見られる。カラーと白黒を巧みに使い分け、時には(当時は新感覚であった)アニメや人形劇を取り込み、ジャズを音楽として使う。また画面を複数に割って多数の人の表情を同時的に追ったり、同じ瞬間を様々な角度から撮りそれをフラッシュのようにつなげていったり、映像の中心となる被写体をぼやかした障害物越しに映したり、と計算された工夫が随所にあり楽しませてくれる。
またどの登場人物も非常に魅力的に描かれている。だからこそ日本映画界を代表する大御所俳優たちがこぞって出演したのも分かる。
数多く作られた金田一映画のなかでも市川作品に横溝正史本人が出演しているのもこれらの理由によるものではないかと思う。
『悪魔の手毬唄』が最高傑作との呼び声が高いが、僕は『獄門島』や『犬神家の一族』も捨てがたく思う。『女王蜂』や『病院坂の首縊りの家』、そして新作の『八つ墓村』と『犬神家の一族』も含め、是非鑑賞してみることを御薦めしたい。
これからきっとどこかで市川昆特集が組まれることと思う。そのときには市川監督の他作品を僕も心して鑑賞しようと思う(余談ではあるが市川昆が関係した最後の映画はもしかしたら三谷幸喜監督の「ザ・マジックアワー(仮)」(6月以降公開予定)かもしれない。市川ファンとしても三谷ファンとしても観なくては......)。

以下簡単な市川監督のプロフィールを紹介する。
東宝のアニメーターとして出発した市川昆は1945年に人形劇『娘道成寺』デビュー。その後精力的に映画を製作・発表していき、1955年に『ビルマの竪琴』で一躍名監督の仲間入りを果たした。さらに文芸映画を中心に『鍵』、『野火』、『炎上』、『破戒』、『黒い十人の女』、『日本橋』、『ぼんち』、『私は二歳』、『雪之丞変化』など名作を毎年のように発表して地位を確立した。
やがて映画産業の斜陽をもたらすことになるテレビの隆盛が始まり、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持つ者が多いなか、崑は逆に新メディアの可能性に注目してこの分野に積極的に進出。フィルム撮りのテレビ映画やCMにはじまり、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマ、さらには生放送ドラマまでを手がけ、テレビ史においても先駆的な役割を果た。1972年に監督・監修を手がけた連続テレビ時代劇「木枯し紋次郎シリーズ」はその斬新さから今日では伝説的な作品となっている。
1965年には総監督として製作した『東京オリンピック』が一大センセーションを起す。崑はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を和田夏十(妻にして長年の仕事としてのパートナーでもある)・谷川俊太郎・白坂依志夫とともに書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリー映画を撮りあげた。しかも冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影したり、望遠鏡のような2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。一部から「記録性に欠ける」との批判を受けたことから「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こすことになったが、これは紛れもなく傑作というに値するものだろう。
1970年代は横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛け、絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で全作が大ヒットとなった。さらに『細雪』、『おはん』、『鹿鳴館』などの文芸大作、海外ミステリを翻案した『幸福』、『四十七人の刺客』『どら平太』などの娯楽時代劇など、多彩な領域で成果を収める。90歳を越えた2006年には30年ぶりに金田一耕助シリーズのひとつ『犬神家の一族』をリメイクするなど、晩年に至ってもなおその旺盛な製作意欲は衰えることはなかった。
(wikipediaより一部省略・修正)

ご冥福をお祈りします。

自由死刑 島田雅彦著(集英社)

―あなたは死刑制度に賛成ですか、それとも反対ですか?

久しぶりに更新されたと思ったら、冒頭からヘビーな文が目に飛び込み思わず身を引いてしまった人も多いかもしれない。しかし安心されたし。これは僕の勘違いに過ぎなかったのだから。

昨今、死刑制度の是非が世相を賑わせている。僕にしてみれば死刑ほど「する側」と「される側」にとって都合の良い刑はないと考えるので、その論争は無意味に感じてしまう。そしてこのような考えを持つが故にこの本の題名はひどく魅力的に思えた。
しかしながら僕の期待は見事に裏切られた。僕は冒頭のようなテーマを想定していたのだが、それは単なる勘違いに過ぎなかったのだ。
自由死刑とはつまり自殺のことだ。

この物語の主人公である喜多善男は夢の中で“自由死刑”を宣告され、一週間後の自殺を決意する。
しかしこの他人の自殺を上手いこと儲け話に結びつけようとする男に出会ってしまったことから、喜多の“有意義な一週間”は狂い始める。
元AV女優と自殺常習犯とランデブーし、昔の恋人を襲撃し、臓器売買契約を結ばされ、アイドルと殺し屋を誘拐する。
果たして喜多は無事に(?)自殺を遂行することが出来るのだろうか?

自殺を考えることは誰しも経験のあることだと思う。
しかしそれを人生の軸に据えて余生にすべきこと、したいことを考えでしていくと、想像力に乏しい大抵の人々は同じところに行き着く。そう、酒池肉林だ。
この、いわば自由死刑のための儀式というべきものを成し遂げるのは容易ではないことに喜多善男はまず気付く。
なにしろ死を決意している人間であるにもかかわらず、その儀式は相当の気力と体力と金――つまり生の実感が必要だからだ。
そして自分の過去を忘れよう、忘れようと日々を消化している人間が自殺することは、その生と同様に死もまた無意味であり、周囲の人は彼の死を最後の冗談として笑うことで初めて微々たる意味が生じる、くらいにしか考えていなかった自らの自殺がこの社会にあっては全く容易でないこと、全く自由でないことに喜多は気づく。
この過程が時に滑稽であり、時に壮絶であり、興味深く、僕の勘違いをもろともせず物語に引き込んでいく。
また後半に散見するキリスト教とのからみが個人的に面白かった。
カトリックに少なからず縁があり、しかしながらイエスの説教くささに鼻白むところがあり、いささかアレルギー反応を示していた僕にとって、イエスとて真なる自由を求めた一人の人間であって、自由を成し遂げた故の“特異性”からその後の物語において説教的な役回りをになっているのだと認識するようになり、嫌悪感も少し和らいだ。

小説とは読者にただ喜怒哀楽の感情を生じせしむるだけのものではないと思う。
小説とは読者の世界観に新たな物語を吹き込み、その小説からもたらされた新たな認識が読者の世界観を再構築する手助けをするものだ。
その意味で本作は成功をみたといえるだろう。

「自由死刑」というショッキングなタイトルに挟まれ葉巻を燻らす島田氏本人の写真が装丁されている表紙は、いつもながらにナルシシズムに溢れており、その確信犯的なところに苦笑する。
しかし躊躇することなく手に取ってみることをおすすめしたい。
特に村上春樹作品のように虚構のなかにある現実に身を浸すには気力がなく、石田衣良作品のようにあたかも現実のように作られた虚構を駆け巡るには体力がない時には――。

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プロフィール

晋撰堂

Author:晋撰堂
晋撰堂は京極夏彦の京極堂シリーズにかぶれていた頃に命名。
自分の名前にも由来していますが、文化的娯楽作品から気が向いたものを取り上げてレビューを書いていこうと思います。たまに雑記と称して日々の雑念も放出します。
ただ問題は、ほとんど更新をしないということ。休眠状態を常としている現状ですが、もっと気軽に書けるよう努力してみようかと思ったのも、本日の気の迷いかもしれないです……

コメント、リンク等も何卒御気軽に。

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