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2007-11

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【シリーズ】なんか変な映画観ちゃった⑧ 「ハーフ・ア・チャンス」(1998年/仏)

車泥棒で生計を立てている美少女アリス。
ある日、彼女は死んだ母親の遺言に従って、まだ見ぬ父親に会いに行くことを決意する。しかし母親は同時期に二人の男性と交際し、どっちが父親だか分からないとのことなので、二人に会ってどちらかを見極めなくてはならない。
一人は車のディーラーを営み、数多くの名車を所持している富豪。そしてもう一人も有名レストランを経営し、趣味は自家用ヘリの操縦という富豪。
二人はアリスの母親への想いが強かったのか、家族をつくることもなく、華やかだが、どことなく寂しい生活を送っていた。そこへアリスがやって来たことで、二人はアリスを巡って争奪戦を繰り広げる。
そんななか、アリスが偶然盗んだ車の関係で、三人はマフィアの抗争に巻き込まれていき......!?

「仕立て屋の恋」「髪結いの亭主」のパトリス・ルコントが監督。
主演にはフランスを代表する往年の名俳優ジャン=ポール・ベルモンドとアラン・ドロンが「ボルサリーノ」以来の競演を果たしている。
そしてフランスの歌姫であり、ジョニー・デップのパートナーとしても知られるヴァネッサ・パラディが共演している。

アラン・ドロンはこの作品をもって引退することを表明し、更にこの製作陣だけ見ると、かなり豪華な映画であることが予想される。もちろん“豪華である”という印象は裏切られることはない。しかし逆に云えば、それだけがこの映画のウリになってしまっているのではないだろうか。

ストーリーはハリウッド映画によくあるものであるし、穴だらけ。序盤の不可思議な雰囲気を大いに漂わせたアリスが父親比べをし、方や緊張感漲る極道抗争が繰り広げられるスリリングな展開に対し、後半はベルモンドとドロンが大活躍する、ご都合主義的なサービスシーンの連続になる。
普通のハリウッド映画なら見向きもされないだろう。
では何故わざわざこのブログで扱うのだろうか。
それはもちろん、最近ブログの更新を怠っているし、批判的な文章なら楽だから載せてしまえ、といった気持ちからのことではない――はず。

そう――答えはもうお分かりの通り。ジャン=ポール・ベルモンドとアラン・ドロンの共演は、クソ映画を補って余りある魅力を発揮しているのだ。
ベルモンドは「気狂いピエロ」等で、ドロンは「太陽がいっぱい」等で溌溂とした魅力を振りまいていたのに、今や両者とも60歳を超え、息を切らして演技をしている。
それだけで、言い知れぬ寂しさを味わう人もいれば、懐かしさに心ときめかせる人もいるだろう。
勿論、そこにはこの映画を甘ったるいヒューマニズム映画にせず、あえてアクションにし、両者の過去と現在を照らし出した監督の手腕も大きい。

これだけでは一つの映画の存在理由として、足りないだろうか。
いや、そんなことはないはず。たまにはあってもいいだろう。
そう、たまには――だからこの“【シリーズ】なんか変な映画観ちゃった”にて。
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パーマネント・バケーション (1980年/米)

ニューヨークの裏町にある寂れたアパートで暮らす16才の青年は、眠れない晩をいつものようにあてどなく歩き回って過ごした。
部屋に戻ってきた彼は、同居生活を送りながらも、どこかお互いに心がすれ違っているガールフレンドに対し、自らの孤独感に根ざした漂流の必要性を訥々と訴える。
その後再び精神病院に入院中の母親を見舞ったり、町をぶらついて部屋に戻ってみると、彼女の姿は消えていた。
仕方なく彼女に置き手紙を残し、必要なものだけを鞄に投げ入れ、波止場へと向かった......

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」や「ダウン・バイ・ロー」でいまやファンも多いジム・ジャームッシュ監督がニューヨーク大学の卒業制作として16ミリ・フィルムで作り上げた、記念すべき長編デビュー作。
空虚なビルの鉄筋を叩いているような、不気味な鐘の音が降り注ぐなか、どことなく暗い目をした青年が帰宅して始める独白から、私たち観客は緩やかにこの映画へ引き込まれていく。

―物語とは、点と点を結んでいき、最後になってようやく図形が見えるものだ。そして僕の人生もそんなものだろう。
そう、だから漠然とした不安に苛まれる。

―最初は目新しいものでも、次第に嫌悪の対象へと変わっていく。
しかしその無限にも思えるスパイラルから逃れようともがき続ける。

―嗚呼、鐘の音が止まない。

ここで描かれているのは、確かに理由なき孤独感と社会への拒絶感に満ちた「青春」である。
しかし多くの者が一種の憧れを抱くような「自分探しの旅」ではない。
青年の目から見る人々は、喜劇でもあり悲劇でもあるような、そしてそのどちらでもないような狂気に犯されている。
ベトナム戦争の悪夢を引きずる男、笑い続ける女、一つのジョークに執着する男、独り歌い続ける女......
それはもはや絶望の淵のような鬱々とした世界が広がっているようにしか見えない。
けれども、人々と接している間は鐘の音も聞こえない。
そこで青年は決意する――知らない世界を目にしようと。
その決意には、帰ってきた自分はきっと一回りも二周りも成長している、などと云う甘ったるい期待は毛頭ない。
もしかしたら、帰ってこられないかもしれない。
「この世界は自分に合わない」のではなく、「この世界は何ものをも認めていない」のかもしれないのだから――。
時間的にも、空間的にも束縛されることのない“永遠の休暇”で、彼は一体何を目にするのか、気になるところである。

何が起こるでもなく、ただ坦々と紡がれていく映像は、冷気を肌で感じる早朝に見る夢のようで、浸ることができなければ苦痛かもしれない。
しかしカラーにも関わらず、モノクロームのような雰囲気を漂わせる映像は、まさしくジム・ジャームッシュ映画である。
ラストシーンの、船がニューヨークの街から離れていき、次第に海が広がっていくところは、彼の今後を表しているようである。
がらんとしたアパートの一室で、音楽に合わせて独り踊る印象的な青年の姿がDVDのパッケージになっている本作は、ファンならば必見であろう。

タロットカード殺人事件 (2006年/英)

ロンドンにやって来たアメリカ人大学生のサンドラは、ある日マジック・ショーに出かけた。そこでマジシャンのスプレンディーニことシドニーにマジックの助手に指名され、怪しげな箱に入った。するとその箱の中で、死んだものの大スクープを嗅ぎつけて、なんとかその真相を暴こうと三途の河の途中から舞い戻ってきた元敏腕新聞記者のジョーの亡霊に出会う。そこでいま巷を騒がせている通称“タロットカード殺人事件”の真犯人は美青年貴族のピーターだと云うことを知る。居ても立っても居られなくなったサンドラは、シドニーを巻き込んでピーターへの潜入捜査を始めるのだが......!?

タイトルから勘違いされては困るのだが、これはサスペンス・スリラーではない。ウディ・アレン御得意の喜劇であり、その意味では現代の「SCOOP」の方が的を射ていると云えるかも知れない。

ウディ・アレンファンならばお分かりのことと思うが、アレン映画のテーマのひとつとして、因果応報――つまり悪であれば断罪され、善であれば救済されること――はないと云ったテーゼがある。これは「重罪と軽罪」や「マッチポイント」等のようにそのまま織り込まれていることもあれば、多くの喜劇作品のなかでのアレンのぼやき(例;「なんであんなに頭が悪くて、色んな女のケツばかり追い回しているヤツがモテて、俺は......」)としてちらっと見られることもある。
しかしそれにも関わらず――否、だからこそなのか、因果応報がこの世にあって欲しいとの願いがある。その願いが「マンハッタン殺人ミステリー」では映画に魅せる幻となって殺人鬼を懲らしめた。このアレン自身の作品「マンハッタン~」へのオマージュかとも思われる今回の作品では、その趣の酷似と同様に、その因果応報への願いも結果に表れている。但し、今回は「娘の責任は父親にあり」とばかりの痛烈なギャグをもって、自身の役柄には皮肉な結末が用意されている。

そして注目すべきはアレンが自身の監督作に俳優として復帰していると云う点である。
アレンが出ると云うことは当然いつもどおりのマシンガントークを繰り広げ、観客を疲れ(?)させる。しかし昔と異なるのは、さすがに70歳にもなると云うことで、50歳近く差があるスカーレット・ヨハンソンの恋人役は辞退していることだ。そこで今回は余裕たっぷりにヒロインの父親的な役を演じている。
そしてスカーレット・ヨハンソン。
ダイアン・キートン、ミア・ファローに続くアレンの新たなるミューズに抜擢されたことも頷けるほど、アレンの相手役として見事に漫才を披露している。しかも「仮面をつけずに見事に豚を演じられる」だの「男グセが悪い」だのとスカーレットのリアルなネタを脚本中に忍ばせるアレンの悪戯もサラりとかわして見せる。その上、イギリスを意識したハリポタ眼鏡で、しかも一部客層から絶大な支持を得そうな「セクシー」+「眼鏡」の組み合わせを進んでしてみせるところに相当な強かさを感じる。
そして忘れてはいけないのはヒュー・ジャックマン。狂気を宿すイギリス貴族を周到に演じきっている。その紳士な姿は「ニューヨークの恋人」を思い出させる。しかしプールのシーンを見ると、そのムキムキな逆三角形体型で「あ、やっぱりウルヴァリン(「X-メン」)だ......」と思ってしまう(笑)。


それにしても久しぶりのアレン節、堪能しました。
しかもここ2回は公開中の映画を紹介できたので、独り勝手に満足しています。
できれば「アフター・ウエディング」も鑑賞して、紹介したいところですが、それはどうやら叶わなさそうですので、次回はまた過去作品の紹介に戻りそうです。

ヴィーナス (2006年/英)

人は誰しも仮面を被って生きている。
ときにそれはあなたを圧迫して、あなたはそれを己から引き剥がしたいと云う衝動にかられるかもしれないし、ときにそれはあなたの全てを覆い尽くそうとし、あなたは息を詰まらせるかもしれない。
しかし私たちは仮面を付けずして生きてはいけない。
それがなくては、あまりにも無防備だ。

そこで私たちは、仮面を外し、素のままで生きる幸福な自分の姿を夢想する。
しかしそれは叶わぬこと――。
ならばいっそ、己の仮面を、自分の最も楽しめるものへと変えていけば良いのではないだろうか。

この映画は、それを悉く実践して生きた老人の物語だ。

モーリスは70代にして現役の俳優である。若かりし頃は二枚目俳優としてそれなりに活躍していたようであるが、いまは死体専門の役者に落ちぶれていた。
そんなある日、同じ俳優仲間にして長年の親友から「姪を手なずけてくれ」と頼まれる。
女好きのモーリスは勇んでその姪を見に行くが、そこで目にしたのは、「モデル志望」と宣言しつつもスナック菓子をバリバリと頬張る、御世辞にも美人とは云えないような娘だった。
しかしモーリスはその娘ジェシーの根底に潜む美を敏感に感じ取り、デートに誘ったり、モデルの仕事を斡旋したり、更には求愛ともとれる行為をはたらくのだが......!?

独りになると「しっかりしろ!この老人め。」と自分を叱咤し、前立腺の手術に際しては不能になることに怯え、そして元妻の前では老人を曝け出す。
しかしそれ以外の場面では、お茶目な精力絶倫じいさんの仮面を決して外さず、楽しむ。
特にジェシーに斡旋したヌードモデルの仕事風景を覗こうと繰り広げるドタバタも、自らの滑稽な様子を含めて、モーリス自身が楽しんでいる姿が窺える。
そしてその老人臭と激しい性愛を同時に漂わせるモーリスを演じるピーター・オトゥールも、自らを投影するかの如く活き活きと演じている。
「アラビアのロレンス」を演じたときのような青い目の美しい、逞しい青年の姿はもうない。しかしそれに失望することなく、歳相応の役を見事に演じきったピーター・オトゥールの心意気は素晴らしい。

あらすじだけを追ってしまえば、一風変わったロマコメと受け取られてしまうかもしれないが、ここまで読んでもらえば分かって戴けたはず――これは列記とした人間賛歌の映画だ。

個人的には、丁度劇中で引用されるシェイクスピアの韻文「Shall I compare thee to a summer's day?」の一節を暗誦しなくてはならない状況にあり、非常にタイムリーであった。
シェイクスピアの引用し、“ヴィーナス”ことジェシーに重なるヴェラスケスの絵画「鏡を見るヴィーナス」をモチーフにする演出も、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」を参考にしたと云う脚本も機知に富んでいてこの上ない。

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プロフィール

晋撰堂

Author:晋撰堂
晋撰堂は京極夏彦の京極堂シリーズにかぶれていた頃に命名。
自分の名前にも由来していますが、文化的娯楽作品から気が向いたものを取り上げてレビューを書いていこうと思います。たまに雑記と称して日々の雑念も放出します。
ただ問題は、ほとんど更新をしないということ。休眠状態を常としている現状ですが、もっと気軽に書けるよう努力してみようかと思ったのも、本日の気の迷いかもしれないです……

コメント、リンク等も何卒御気軽に。

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