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2007-09

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【シリーズ】なんか変な映画観ちゃった⑤「ロッキー・ホラー・ショー」 (1975年/英)

このシリーズで紹介する作品の中でも群を抜いて変態的な映画だろう――否、そもそも変態的な映画を紹介するシリーズではないのだが......

当時イギリスで絶大な支持を得たリチャード・オブライエン作のロック・ミュージカル「ロッキー・ホラー・ショー」を映画化したもの。主演は舞台同様ティム・カリーが務める。

念願の婚約を果たした若い男女ブラッドとジャネットは、二人の恩師に報告しようとドライブに出るが、その道すがら激しい雷雨に遭い、進めなくなってしまう。そこで途中に見えた古城に電話を借りに行く。しかし二人を迎えたのは何とも気味の悪い執事。やがて城の主が現われ、奇妙なパティーに参加させられてしまい......!?

様々な抑圧された感情を爆発させた本作は、映画史上に残る衝撃作として名高いが、そのサブカルチャーの先鋭としての装飾を取り外せば、気色の悪いB級映画に過ぎないのではないかと云う疑念が沸く。性倒錯者=宇宙人の構図が逆説的に世の差別を嘲笑い、権威者を徹底的にコケにし、性の解放を謳歌する。さらにそこにミュージカル、アクション、ホラー、SF等々の様々な要素がごった煮にされ、過激でシュールな演出で味付けされている。

僕のような凡人にはもはや「悪趣味」としか映らない。
しかも噂によると、この映画は“パーティー”に積極的に参加するが如く、映画館で乱痴気騒ぎをしながら鑑賞されていたらしい。
いずれにせよ、開けてはならない玉手箱だったのかもしれない――スーザン・サランドンが今と然して変わらぬ容貌を映していることを含めて。
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めがね (2007年/日本)

「かもめ食堂」で云わばヒーリング映画のジャンルを開拓した監督・荻上直子がまたひとつ、そこに帰属するだろう映画を生み出した。主演の小林聡美と、もたいまさこもそのままに「かもめ食堂」のスタッフが再び結集した本作では観客に極上の“たそがれ”空間を演出する。

あくまでも「演出する」と書いたのは、観る人にもある才能が求められるからだ。
そう――ここにいる才能、が。


海の美しい小さな町に飛行機から降り立ったタエコ(小林聡美)は、妙な地図を手に畦道を歩いて素朴な民宿「ハマダ」に到着した。宿の主人・ユージ(光石研)とその愛犬・コージ、不可思議な雰囲気を漂わせる女性・サクラ(もたいまさこ)、自由奔放な女教師ハルナ(市川実日子)らに出会う。しかしタエコは、マイペースな「ハマダ」に集う人々に中々馴染むことができず、遂にもう一軒の宿に移ろうと決心するが......!?

南国を思わせる碧く美しい海と、波に洗われる白い砂浜。
遠く彼方に沈む紅い夕日と、手が届きそうな三日月。
僕を含め、たそがれることを厭わない人々は、風を感じ、大いにたそがれることができる。
いつも騙されないように、間違えないように、慎重に呼吸をし、他と比べ、蔑み、憐れむ目線から避けるように殻を纏う現代人にとって、“たそがれる”能力はいつのまにか忘れ去られているようだが、意外にも誰にでもあるものなのかもしれない。

本作の主人公・タエコもそのような“現代人”のひとりであるに違いない。
「かもめ食堂」と同様に、本作でも登場人物の背景については語られず、映画の奥行き――鑑賞者の想像が許される余地がある。
しかし女教師ハルナだけはどこか違うように見える。終始鋭い視線を投げかけ、タエコにまるで異物に接するかのような態度をとる。そこに“楽園”に馴染んでいるように見えても、まだ“現代人”を感じてしまう。
この人物造形には「ここは決して特別な“楽園”ではない」と云ったメッセージでもあるのだろうか。それとも只の人間の多様性なのか――。
この人物造形に関しては疑問の残るところだ。

本作は些かシンプル化が過ぎているようで、僕は「かもめ食堂」の方が好むところだが、期待には応えていると思う。しかし次回作は、似て非なるものをまた生産するだけでは厳しいものがあるだろう。その辺に注目していきたい。


それにしても、なんとお腹の空く映画なのだろう。
これから鑑賞する方々には、腹ごしらえをしてから劇場に足を運ぶことを御薦する。
でないと、鑑賞中にお腹が鳴ってしまう。

【シリーズ】なんか変な映画観ちゃった④「ライフ、アクアティック」 (2005年/米)

「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」のウェス・アンダーソン監督作。
主演は「ロスト・イン・トランスレーション」や「ブロークン・フラワーズ」で最近すっかりアイデンティティを失った中年オヤジ役が板に付いたビル・マーレイ。例に違わず今回も同様の役柄。
脇で疑惑の息子役でオーウェン・ウィルソンが出演。更にアカデミー賞女優のケイト・ブランシェットも雑誌記者役で登場しており、相変わらずの演技達者ぶりを見せ付けてはいるが、本作ではイマイチ影が薄い。
何故ならば見せ場は少ないながらも強烈な個性でウィレム・デフォーが視線を一身に浴びているからだ。W・デフォーと云えば「スパイダーマン」や「二重誘拐」での悪役が常であるが、今回はいじけてみたり、喧嘩を仕掛けてみたり、妙に気負ってみたりと子供のようにコロコロと表情を変え、何だか可愛らしい。

そう、このW・デフォーの存在がどうも気になってしまうのは、当にこの役こそが本作を象徴しているようなものだから道理であろう。
云わば、この映画は“大人のための子供の映画”なのである。
序盤のテンポの悪さを補うのはCGで美しく映し出された海洋生物であり、ドールハウスのような可愛らしい船である。
流石に退屈だった序盤から打って変わって弾けるような終盤もラストにじんわりと感動させるのも未知の生物“ジャガーシャーク”である。

海洋アドベンチャーコメディーと一括りにできないような極めてシュールな映画であり、決して人に薦められるものではないが、妙に心に引っ掛かる映画であった、と云って置こう。


最後に云い忘れてはいけないのは、(実は先に紹介した「マンハッタン殺人ミステリー」にも出演していたのだが)アンジェリカ・ヒューストン様は相も変わらず凛凛しくいらっしゃったと云うこと。
また、デヴィッド・ボウイのカバーナンバーも必聴である。

かつて歴史に輝かしく残るような海洋ドキュメンタリー映画を撮っておきながら、今ではすっかり老け込んでしまい、酷評に晒され続けている海洋探検家のスティーヴ・ズィスー。資金繰りにも苦労する有様だったが幻の“ジャガーシャーク”に殺された盟友の仇を討とうと最後の航海へ乗り出す。しかし妙な仲間は増え、背後には海賊の影が忍び寄っていた......!?

【シリーズ】なんか変な映画観ちゃった③ 「ミクロの決死圏」(1966年/米)

当時B級娯楽映画の傑作と云われた本作は、CGが発達した最近に於いても楽しめる――色々な意味で。
CGが発達していなかった当時としては、どれだけ苦心して映像を造っていったかは計り得ないことではあるが、演技している役者達といい、大真面目でやっている分だけ、嗤ってしまう。
何しろストーリーからしてネタなのだから......

さる要人が脳に障害を起し、外科手術では助けられないと判断された。そこでその要人を救うべく、勇敢な大佐以下、優秀な科学チームは特殊潜航艇プロテウスに乗り込み、ミクロサイズに縮小され、その体内に潜入するのだった。果たして彼等は制限時間内で無事手術を施すことができるのだろうか......!!

確かに
―ミクロの世界も、宇宙の如くまたマクロの世界と同様に無限なのである
とする哲学的な真理に則り、SF的な要素を人体の神秘に盛り込んだアイデアは光るものがあろう。
しかし、嗤いを堪えられない......
しかも政府と同様に瀕死の要人だけが知る“ ミクロ化の永続技術”を狙っていた敵対組織はどうしたのやら、と展開にもツッコミどころも満載!

もし観るのならば、
―映画は時代を反映するものだから。
と寛大な心で歓楽して戴きたい。

「トラ・トラ・トラ!」「海底二万哩」等で知られる娯楽映画の巨匠リチャード・フライシャー監督作品。


それにしても、ハリウッドは物好きだ。どうやら本作をリメイクする模様。
監督は「デイ・アフター・トゥモロー」のローランド・エメリッヒ監督の予定。
果たしてどんな作品になるのやら......

イノセント・ボイス 12歳の戦場 (2004年/メキシコ、アメリカ、プエルトリコ)

無名の俳優オスカー・トレスが少年時代の体験をつづった脚本を、「メッセージ・イン・ア・ボトル」等で知られるメキシコ出身の監督ルイス・マンドーキが映像化したもの。主人公の少年を演じたメキシコ人少年カルロス・パディジャは、以前「聞き分けのない子供は嫌い」と宣言した僕でさえ満足する程、純真且つ強かな少年像を自然体で演じている。

1980年代の中南米エルサルバドル――そこでは日々政府軍と反政府ゲリラ組織が血で血を洗う内戦を繰り広げていた。11歳の少年チャバ(カルロス・パディジャ)は、父親が家を出たため、母親と妹弟を守らなければならないと云う自負心を背負い生きていた。しかし同学年の少年は次々と徴兵されていき、チャバにも徴兵の影は刻々と迫り来ていた......!?

概してエルサルバドルはスペインの支配以来内戦が絶えることがなかったのだが、この映画はそのなかでも軍事クーデターによるロメロ政権崩壊後に発足した革命評議会による暫定政府と、民族解放戦線との間で1980年から勃発したエルサルバドル内戦を描いている。いまの状況は冷戦当時の状況とは異なるものの、事態の収拾のために乗り出したのがやはりアメリカ合衆国だったことが、この映画の価値を高める一要因であり、いま我々がこの映画を観る意味のひとつであると思う。

この映画のなかでは政治的な概要を説明することはない。したがって基本的な概略を知っていた方が理解しやすいと思う。しかしあくまでも主人公は12歳になる前の少年である。故にその少年の視点から描かれた戦争であることもまた理解されたい。12歳で強制的に少年兵にされる切実さがあったからか、時にユーモラスであるものの、それは十二分に生々しく悲惨さを写している。

始めはまだ幼いが故の楽観さが残っていたが、生と死の狭間で揺れ動く生活のなかで次第に“たくましさ”を身に付けていく少年しかし最後まで銃を取ることのなかった少年は、やはり銃を取ることなくミシンを買った母の姿ににたのか――。その同じ手を持つ多くの人に平和が訪れることが望まれる。

マンハッタン殺人ミステリー (1993年/米)

ウディ・アレン――僕の大好きな映画監督を三人挙げるとしたら、この人はその一人として必ず入れなければならない。

神経質なマシンガントークも、目まぐるしいストーリー展開も、小粋なジャズのバックミュージックも、そのアレン流の全てがツボを刺激する。本作もその例に洩れず、またシリアスな面が一切ないこともあって爆笑必至、最高に楽しめる一品に仕上がっている。
アレンのお相手はパートナーの縁を切ったミア・ファローではなく、ダイアン・キートンを再起用している。後に「これは僕自身へのごほうびのような映画だ」と語っているように、アレンにとっては公私に渡って区切りとなった映画なのだろう。

ニューヨークはマンハッタンに住むリプトン夫妻は倦怠期を迎えていた。そんなある日、マンションの隣室に住む老夫婦の夫人が突然死してしまう。しかし妻のキャロルは夫人の死を不審に思い、私立探偵よろしく勝手に調査を開始する。「馬鹿馬鹿しい」と反対ばかりしている夫のラリーも引きずられるように首を突っ込む破目となり......!?

自身の監督作「アニー・ホール」やオーソン・ウェールズの作品へのオマージュに気が付いた人もいるだろうが、そんなものに気が付かずとも十分に楽しめる。それでなくとも犯人と対峙するラストシーンでは“映画”が重要な役割を担っており、アレンの映画に対する愛情の深さが窺い知れる。
コメディやミステリーは、そもそもその舞台から外れたところで内容を語られてしまうと面白さが半減してしまうので、語りたくともこの場で語ることはできないのが口惜しい。
兎に角、妙にハイテンションなキートンと、むしろ抑え気味(?)のアレンの小気味良い会話を御堪能戴きたい。
久しぶりに自信を持って御薦めする映画です!

ラストコンサート (1976年/伊・日)

本作は映画としては限りなくB級なのだが、公開当時にリアルタイムで鑑賞した人々のなかには自らの青春時代と重ね合わせ、非常に愛着をもっている人も居るようである。
その人々にとっては長らく“幻”のレーザーディスクのみの販売であったのがDVD化されたことはうれしいニュースだったのではないだろうか。


才能があるにもかかわらず失敗を恐れるあまり落ちぶれているピアニストは、偶然に一人の少女と出会う。少女の体は病魔に冒されており、後三カ月の命と診断されていることを知ったピアニストは面倒事には係わりたくないと思うが、少女の父親探しに付き合わされる破目になる。その道中で二人は親子ほどの年齢差も乗り越え、次第に心を通わせていくが、残された時間は僅かだった......


まず、モンサンミッシェルの見える海岸などの美しいフランスの景観と、ピアニストの奏でる甘美な音楽がウリであるにもかかわらず、映像は劣悪で音割れもする。
そのうえストーリー展開も強引過ぎる。三ヶ月前からほとんど外観的変化の見られない白血病の少女がピアニストの演奏を聴きながらコロッと何の苦もなく死んでいくラストシーン等々挙げていけばキリがないが、兎に角リアリティがない。ファンタジーでもなく、現実的(?)な設定のなかでリアリティを排除するのは如何なものかと思う。
しかし少女が父親と同年代であろう男に愛着をもち、ファーザーコンプレックスと決別することで其れが愛情に変わっていく様子は手堅く描かれているし、最初は少女一人のハミングが流れていたのが、男と心が通うと二人のハミングに変わる演出は心憎い。

何より、人の心に残る映画は幸せなのかもしれない。

「博士の異常な愛情~または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」 (1964年/米)

これを見てまず最初に浮かぶ感想は皆一様に

―題名が長い!!

だろう。
しかしスタンリー・キューブリックが生み出したこの映画を観れば、映画自体が題名以上に衝撃的なものであることをわかって戴けるだろう。

狂った将軍の独断でアメリカはソ連に核攻撃を仕掛けてしまう。しかしソ連には攻撃を受けると同時に発動し、全人類を抹殺する最終的核兵器が待ち受けていた!そこで核投下までになんとか防ごうとソ連大使を特別に招致して大統領以下幹部達は議論するが、どうにも止められそうもない。そんななか、一人の――どうやらヒトラーに傾倒しているらしい――ドイツ系の博士がにこやかに、「自分たち幹部と将来の人類繁栄に貢献できる少数の優秀な人材のみを生き残らせよう!」と自説を披露しだすのだが......


緊張感があって然るべき展開なのにどこか間伸びしたテンポと、それはもうピーター・セラーズの影が霞む程の各キャラクターの濃さ――特に博士等は神経症の如く腕が勝手にヒトラー総督への敬礼ポーズをとってしまいそうになったり――が観客を擽る。そして何より全篇に渡って散りばめられた――この映画自体そうなのだが――ブラックユーモアが絶妙だ。
その意味で「間違い」で呆気なくも世界が破滅に向かってしまうラストは皮肉の極みだろう。


さぁ、あなたも「また晴れた日に合いましょう~♪」と心地の良いメロディアスな曲に乗せて(?)ボンボンと立ち昇る水爆のキノコ雲を見物しませんか?

社長放浪記 (2007年/日本)

伊藤四朗生誕七十周年記念と銘打たれた本作は、なんと脚本に三谷幸喜、演出に三宅裕二(スーパー・エキセントリック・シアター主催)、そして主演が伊藤四朗と云う最強の喜劇人が結集した舞台となった。その他にも東京ヴォードヴィルショーを主催する佐藤B作や「芸暦七十周年(?)」とも噂される大ベテラン中村メイコ以下藤澤恵麻、山口良一、東貴博、伊東孝明、河本千明ら個性豊かなメンバーが揃う。

三谷幸喜ファンでありながら、毎度数々の不幸な災難に見舞われチケットを入手できなかった僕は某TV有料チャンネルで拝見した。

率直に云うと、

―面白い!

の一言に尽きる。「エキストラ」を始めとして昨今の三谷作品はネタ切れか、と心配していたのだが、三谷幸喜はまた一つ傑作を生み出したと断言しても良い。否、原作者の三谷氏から離れ、より客観的で抑止の効いた演出を施した三宅氏や、作中では「悪人面」「岩石顔」と誹られていても人の良さが全面に滲み出ている伊藤氏等々の力が各々の味を上手く出しつつ、全体としてのまとまりも感じられる為だろう。


僕が今回注目した人物は二人――中村メイコさんと佐藤B作氏だ。
中村メイコさんは年代の所為もあってか僕はあまり知らなかったのだが、コメディ女優としての芸暦は相当のものらしい。しかしそれほど多くはない登場シーンの随所でそのただ者でない様を感じさせられた。
兎に角、「間」が良いのだ。
笑わせる時はテンポ良く、それでいて速すぎもせず遅すぎもせず絶妙のタイミングで口を挟み、しんみりさせる時は少しスローに語りかけるようにする。
ちょっとひねくれた、しかし実のところ夫を想う社長夫人役はぴったりだった。

そして佐藤B作氏。彼のやかましさが僕は苦手だったのだが、今回はそのやかましさが非常に効果的だった。役どころとしては、以前忘年会で社長の物真似をしたが為に常務から駐車場誘導係に降格させられた男。過去を恥じらいつつも、まだ物真似で目立ちたいとうずうずしている少し哀しい中年オヤジの役に、彼独特のやかましさが見事にハマっている。

勿論そのほかの出演者も全員に見せ場があり、存分に活躍している。始めから終わりまで抱腹絶倒のこの作品、観る機会があれば是非どうぞ!

[ストーリー]
あるお菓子メーカーでは最近販売したお菓子に異物が混入していたと多数の苦情が寄せられるようになっていた。そのため退任を迫られることとなった社長はしかし頑として退任要求を受け入れようとしない。
そんな堅物社長の唯一の楽しみは、社内販売でやってくるお菓子売りの女の子と社長室で会うことだった――それも初めて会ったときに女の子が社長のことを社長室で観賞用植物の害虫駆除をしている業者の人とと間違えてしまったため、社長は以後害虫駆除業者に変装して会うという妙な状況で。そんな社長だったが、その密会の場面を見つかってしまった。しかし幸か不幸か自分がであることはバレず、驚異的なソックリさんということにされてしまう。そのため社長を追い落とそうと画策する専務に一時的に社長に成り代わるように頼まれてしまい......!?



真昼の決闘 (1952年/米)

「地上より永遠に」「ジャッカルの日」で知られる監督フレッド・ジンネマンが放つ異色西部劇。
主演はダンディーな面影に睫毛がお茶目な大スター、ゲーリー・クーパー。共演にはグレイス・ケリー。
名作の呼び声高い作品であるが、これは当に西部劇としては「異色」であり、僕のように普通の西部劇の面白さを期待して観ると、鑑賞後に深い後悔に苛まれる。


新婚で幸せな家庭を築くため保安官の職を辞することとなった主人公だったが、かつて逮捕したならず者が復讐に戻ってくるという知らせを聞き、決闘を決意する。
相手は子分も含め四人であるため、主人公も仲間集めに奔走するが、事なかれ主義の町の人々は全く協力しようとしない。
更にお嫁さんには「決闘と私たちの未来、どっちが大事なの?」と迫られる形となり、逃げられそうになる。
まさに踏んだり蹴ったりだ。さて、主人公の未来や如何に!?

重ねて言っておくが、これは並みの細部劇ではない。実際に悪者共との決闘シーンは短く、しかも御世辞にも彼等は強いとは云えない。

この作品の要となっているのは、長い時間が費やされている主人公の仲間集めのシーンだ。このシーンで炙り出される欲深き人間の姿は、思わず目を背けたくなるほど精密に描かれている。
自分たちの身の安全と、少しばかりの刺激の為ならば、ある程度の服従は厭わないとする村人たちだけではなく、町に被害が及ぼうとも、己の正義を全うする為に頑として決闘を行おうとする主人公の姿勢にもそれは窺える。
そのなかで一人、確固たる自分を持ち崩さない女(主人公の元彼女にして隠れた理解者。ケティ・フラドが演じる。)が格好良い。


真昼の刺すような日差しが照るなか、町を駆けずり回る主人公は痛々しく、観ている人間も悲痛な気持ちになる。しかし無言の内に迎える格好良いエンディングまで観たとき、人それぞれが様々な思いを胸に溜息をつくことであろう。 

【シリーズ】なんか変な映画観ちゃった②「モンキー・ビジネス」 (1952年/米)

忘れた頃にやってくるシリーズ第二弾は「モンキー・ビジネス」!!
監督は「リオ・ロボ」等でおなじみの巨匠ハワード・ホークス。主演にケイリー・グラント、ジンジャー・ロジャースを迎え、脇にはなんとブレーク前のマリリン・モンローが出演している。

製薬会社の研究員として日夜新薬の開発に追われるバーナビー博士は「若返り薬」の開発に行き詰まっていた。そんな時、一寸研究所を空にした間に実験台のチンパンジーが檻から脱出し、あろうことか開発途中の薬品をデタラメに配合し、更にそれを飲料用水クーラーの中に流し込んでしまう。そうとも知らず水を飲んでしまったバーナビーは見た目こそそのままだが、視力は2.0に回復し、元気ハツラツ、ルンルン気分で社長秘書とデートまでしてしまう。数時間で効果は切れたものの、今度は妻のエドウィナが水を口にしてしまい......!?


今ではマンガのネタにもなりはしないであろうベタな物語ではあるが、終始ハイテンションで繰り広げられるドタバタには、つい頬を弛めてしまう。後半に夫婦そろって「見た目は大人だが中身は子供(どこかで聞き覚えのあるフレーズだな、と思ったら「名探偵コナン」の逆だと思い至る)」になって、日頃の鬱憤を爆発させながら暴れまわるところなど吹き出してしまう。今や手垢の付いたネタであろうと笑わせる力を持つ、普遍的なコメディの秀作と云うことができる。

しかし賢い御猿さんのように只傍観し、面白がってはいられない。それどころか少しばかり考えてみると、恐ろしくもなる。
テレビや雑誌等の煽動もあり、現代を生きる人々は「老化の防止」「若返り療法」「十歳は若く見せる化粧の仕方」「若々しいボディの維持」に御執心だ。エクササイズに励み、ビタミン剤を飲み下し、何時間も鏡の前に座って僅かな差異にほくそ笑む――なんと愚かしいことか。そのような価値観を持ち得ない人から見れば、現代人の姿そのものが「モンキー・ビジネス」に通じるものがあるのでろう。
結局は、不確かな若返りに時間を費やすよりも、人間はその時間分だけ確実に老化していくのだから、いまを楽しんだほうが良いと云うことか――。

ブラック・スネーク・モーン (2006年/米)

アメリカの田舎町メンフィス――そこは美しい自然に囲まれていながらも暴力と性がはびこる、どこか攻撃的な雰囲気を持つ町だ。
その町でかつてはブルース奏者として名を馳せたものの、今は農園を営み、また教会にも通う敬虔な市民として暮らしてきた初老の男ラザルスは、妻からの離婚宣言でひどく不愉快な日々を送っていた。そんなある日、ラザルスは若い女が道に倒れているのを見つけ、家に連れ帰った。女の名はレイ――幼少期に父親から受けた性的虐待から性行為依存症を患っていた。それに気づいたラザルスは、これぞ俺の使命だとばかりにレイの身体に頑丈な鎖を巻きつけて荒治療を始めるのだったが......!?

屈強な黒人男性が座り込んだ美少女に鎖を巻きつけ、正面を睨みつけているポスターがとてもセクシーで、思わず目を引き付けられるだろうが、内容は非常に真剣で切ない。過激なシーンがないと云えば嘘になるが、しっかりとした物語構成と誠実な演出、そして見事に危ういレイの病理を体現して見せたクリスティーナ・リッチの演技のおかげで必要以上に卑猥なものに陥っていない。むしろ病魔との闘いの象徴ともなった鎖だけでなく、魂から歌い上げるラザルスのブルースによって心で繋がれた二人が心を解放していく様は崇高ですらある。また自己の内側への他者の侵入を許すことで痛みをやりすごしていたレイに、ラザルスが鎖で心から、食べ物で口から、歌で耳から、衣服で体からその守るべき身体を明確化してやる過程が鮮やかだ。更に過去の出来事を清算すべく築き上げていく擬似親子の物語としての視座をもってしても、「ミリオンダラー・ベイビー」に近しい美しさを表現している。
クリスティーナ・リッチは「耳に残るは君の歌声」「モンスター」と着実に演技の幅を広げ、今作では前述のとおり、果敢なげだが時として獣の如き顔も持つ美少女レイを完璧に演じている。また驚くほどブルースを達者に演奏し、圧倒的な存在感を見せるラザルス役のサミュエル・L・ジャクソンも素晴らしい。更に後半で重要な役どころとなるレイの恋人を演じるジャスティン・ティンバーレイクも特筆に値する。

目に見える持病であったり、心の中に潜む罪悪であったり、人にはそれぞれの“ブラック・スネーク・モーン”があると思う。しかもほとんどの人が初期のレイのように神経質に悩みながらも、どうすることもできずに人生を蝕まれているように思われる。その自分自身の弱さに気づいている人にとって、この映画は殊に意味のあるものであろう。僕も、まだ完治したわけではないが病と闘っていく強さを身に付けたレイと、ブルースを再び奏ではじめ、自信を回復したラザルスの姿には胸を打たれた。


現在、渋谷にて単館上映している(やっと公開中映画を紹介できた...)。この隠れた佳作をどうぞお見逃しなく!

東京湾景 (2003年/新潮社)

僕はほとんど恋愛小説を読むことはないのだけれど、この本はお気に入りの作家である吉田修一によるものであったため読んだ。
吉田作品を読むとき、その鋭い文章から鋭利なナイフを喉もとに突きつけられているような感覚を憶えることがある。しかしこの作品は登場人物が温かく見つめられているようで、比較的安心して読んでいられる。それでいてこちらが赤面してしまうような甘い言葉の重ねあいも少ないこともありがたい。

品川埠頭の倉庫街で働く青年・亮介が携帯の出会い系サイトで知り合った「涼子」と名乗る女性と25歳の誕生日に出会ったことから物語りは始まる。嘘を重ねて真実を隠し、遊びとも本気ともわからない駆け引きのなかで二人が求める愛のカタチとは......!?

二人の人物(亮介と「涼子」)の設定が見事。
方や亮介は高校卒業後すぐに品川埠頭の倉庫街で肉体労働に勤めるようになり、住居は会社の狭い寮で生活も決して良いものではない。また自分の言いたいことを上手く言葉に表すことができない幼さが残り、「涼子」を好きになってからも、過去に熱烈に愛した女へのコンプレックスや今の彼女へのうしろめたさ、「涼子」の男関係といちいち振り向いては切り捨てて「涼子」に歩み寄っていく。
方や「涼子」は品川埠頭の対岸にある華やかなお台場の一流企業でバリバリと働き、生活も潤っていながらも、恋愛にたいしては虚無感を抱いている。しかし亮介に惹かれるにしたがって世界は「亮介」と「わたし」の関係に変わり、他の雑多なものには目を向けなくなっていく。

人気がなく大きな倉庫が乱立する寒々しい品川埠頭に対して、いつも人の笑い声が響いていそうで華やかなお台場――その対照的な生活空間設定に加え、また恋愛感覚も少しづつ異なる二人ではあるが、お互い「心で繋がり合う恋愛」を求め、それでいてなかなか飛び込めないで進退を繰り返すゲームの行方から目が離せない。
また才能の枯渇に悩み、亮介と「涼子」の恋愛の行方をそのまま小説にしてしまおうとし、そのゲームに横槍を入れてくる恋愛小説家の青山ほたるの存在も面白い。

僕も羽田空港を利用する際は必ず東京モノレールに乗車する。その度になんとなく目にしていた味気ない風景も、この小説を読んだ後では色づけされたように、今までとは違った風景に見えるかもしれない。


余談ではあるが、僕は小説を読むときに「この小説の雰囲気にはこの人の曲が合うな」等と考えて曲を流すことがある。ハマることもあればハマらないこともある。しかしぴたりとハマった時にはその感動は何倍もに膨れ上がる。
この本のメインテーマは絶対的に椎名林檎の「本能」だと思う(特に第五章で)。そしてエンディング(第六章)は「依存症」でシメたい。偶然にも「依存症」の歌詞には「品川埠頭」と云う言葉も入っていることであるし。


―明け立ての夜を強請る品川埠頭に似合うのです

スターリングラード (2000年/米・独ほか)

時は1942年9月。スターリングラードはナチス=ドイツの猛攻にさらされ、もはや陥落寸前といった戦況。そこへ送り込まれたのが主人公の赤軍新兵ヴァシリ。戦闘機や戦車を駆使した敵の銃弾が降り注ぎ、二人に一人しか銃を持っておらず只々突撃していく味方が倒れていく中、ヴァシリは死体に紛れて反撃の機をうかがっていた。そこで偶然出会った同じように身を潜めていた青年政治将校ダニロフのライフルを借り、ヴァシリは驚くべき正確さで敵兵を次々と仕留めていった。その銃撃の腕前によってヴァシリはソ連軍の英雄となる。しかしその“英雄”を抹殺するためドイツ軍の凄腕スナイパー(少佐)が静かに迫り来るのだった......!!

フランス人映画監督ジャン・ジャック・アノーが描く戦争大作。
この監督はショーン・コネリー主演の名作「薔薇の名前」で有名となり、以降の「小熊物語」や「トゥー・ブラザース」のような動物映画でも知られている。
僕は以前、動物好きの友人と「トゥー・ブラザース」を観に行ったのだが、余りにも甘い展開の話で辟易した経験があるので、この監督には良い印象を持っていなかったのだが、この「スターリングラード」は楽しめた。

まずキャスティングが功を奏していると思う。主人公ヴァシリをジュード・ロウが演じているのだが、その端正な顔立ちがロシア人としての違和感を感じさせない。
そして敵であるドイツ軍少佐を演じているエド・ハリスも、自分の息子を殺された復讐心を静かに燃やしつつ冷徹にヴァシリを追い詰めていく様を相変わらずの渋い名演技で魅せてくれる。

また物語の描き方も絞られていて良い。下手にスケールを大きくして観客の視点を惑わせることがない。派手な戦闘シーンも最初だけで、あとは時々ソ連軍の切迫した内情が挿入される(それにあわせて「人が妬み合うことのない理想的な共産主義も、現実にはこれ(散々)だ......」といった製作国であるアメリカらしいセリフもあったり......)くらいで、話の中心はヴァシリと少佐の緊迫したスナイパー対決に据えられている。
とは云うものの、しっかり恋愛の場面もあったりと娯楽的要素は豊富だ。しかし最後の「愛に包まれた感動の場面」は許されるのだろうか?そこで奇跡が起こってしまったら政治委員殿の自己犠牲は勘違いに発してしまうことになり、自業自得とはいえやりきれない。
まぁ、この箇所を読んでも、まだ鑑賞していない方にはわからないだろう。しかしそれまで十分に楽しめていたにも関わらず、この映画の最後の最後で僕には釈然としない気持ちが残ってしまった、と云うことは書き添えておきたい。


―やっぱり甘かった、ジャン・ジャック・アノー。

余談ではあるが、この映画が公開された頃には他にも「シン・レッド・ライン」や「プライベート・ライアン」等の戦争映画がある。
是非これらの作品を見比べてみてはいかかだろうか?

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プロフィール

晋撰堂

Author:晋撰堂
晋撰堂は京極夏彦の京極堂シリーズにかぶれていた頃に命名。
自分の名前にも由来していますが、文化的娯楽作品から気が向いたものを取り上げてレビューを書いていこうと思います。たまに雑記と称して日々の雑念も放出します。
ただ問題は、ほとんど更新をしないということ。休眠状態を常としている現状ですが、もっと気軽に書けるよう努力してみようかと思ったのも、本日の気の迷いかもしれないです……

コメント、リンク等も何卒御気軽に。

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