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2019-01

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「フィッシュストーリー」 (2009年/日本)

本日は束の間の秋休みといったところでしょうか。
時折、空っ風が吹き荒ぶものの、屋内で柔らかな日差しだけ浴びてぬくぬくしている者としては、あまり関係ありません。突き抜けるような青空だけが心地よいですね。

さて、早速ですが、先日のつづきを綴ります。
と、その前に、そういえば前回の記述は10月――そして今日は既に11月。ということは、意図せず2ヶ月連続の更新ということになりますね!
書いていて何ですが、酷く矮小な悦びです(反省)。

それでは気を取り直して本題に戻りましょう。

もう一方の『フィッシュストーリー』について。簡潔に云うなれば、こちらも程よく痛快な作品でなかなか悪くない。
1975年、早熟に過ぎて鳴かず飛ばずのパンクバンド“逆鱗”のメンバー4人(伊藤敦史、高良健吾、渋川清彦、大川内利充)は、解散前最後のレコーディングに挑んでいた。孤高の彼らの音楽は誰かの胸に響くのか――そんな疑問をよそに、彼らが願いを込めたその曲は、ときを超え、世界を救うこととなる。
地球の滅亡まで数時間に迫った2012年、営業を続ける一軒のレコード店から“逆鱗”のあの一曲、「FISH STORY」が流れ始め......


バタフライ・エフェクト的な物語展開をみせる本作の物語はその題名に忠実で、観賞後に軽く笑って「ないない」と云える後味の良い作品である。
似た状況を描いた小説は数多くあれど、例えば最近で云うと三浦しをんの『むかしのはなし』があった。こちらも題名に仕掛けがあるのだが、それは今回無視して話を進める。ここでは極々簡単に云うと、火星移住という人類生存の具体的手段があったため、様々な立場に置かれた人々の心情はより複雑である。スポットライトを当てられた登場人物の心情は丁寧に描かれ、重い。
そう、だからエンターテイメント映画にはならないのだ。
他方、本作ではこの心情描写を極端に薄めたことが、本作の試みは有効せしまたひとつの要因だろう。

ただし演出には大きな問題がある。心情描写を控えた分、その他の造形は深めたいところ。
しかし各時代背景を上手く描ききれていないのだ。どの時代も均質的なのだ。服装や食事といった道具だけではコントの域を出ない。時代特有の雰囲気が上手く出せれば物語にもっと厚みが出たことだろう。
しかしなんといっても劇中パンクバンド「逆鱗」のボーカル(吾郎)を演じた高良健吾のハスキーヴォイスは見事だった。もう現実に「逆鱗」として活躍して欲しいぐらい。
(ちなみに以下の映像を参照。youtubeより→「フィッシュストーリー」by逆鱗)
そして演技面では、いつもながら飄々と演じた大森南朋が唯一現実味がある人物像を形成できていた。

それにしても地球滅亡の危機が回避された瞬間とはどんなものだったんでしょうか。「助かった!」歓喜の雄叫びを上げた次の瞬間には、それまでに重ねた非日常的経験が想定外の「これから」の人間関係にどう影響するかを考えると気まずい。とても気まずい。いっせーのせっ、でリセットできれば良いのだが、まず無理でしょう。
誰か「その後」のむしろより醜い世界を映画化する人はいないのでしょうか。まぁ、映画になっても観たくないけど(笑)
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「重力ピエロ」 (2009年/日本)

先日、日課を放棄して映画館に向かいました。
かねてから贔屓にしている早稲田松竹へ。
ここでは選び抜かれた旧作(わりと新しいものも上映する)を格安料金二本立てで、しかも良質な座席でゆったりと見られるすばらしい映画館です。
個人的には高校生のときから慣れ親しんだ界隈にあり、これもふと気軽に足を運んでしまう理由かもしれません。
JR線と西武線という雰囲気の異なった路線が走り、駅からは絶えず人を吐き出しています。その吐き出された人々がお洒落なカフェから無機質なオフィス、かしましい居酒屋にいたる様々なビルが乱立する街中へと消え、或いはそこから現れ、また駅に飲み込まれていくのを眺めているのは実に楽しいことです。
ただ、その日は上映時間も迫っていたので、悠長に構えてはいられません。
二本鑑賞するには、それなりの気合が必要ですよね。

さて、今回は伊坂幸太郎特集。
小説を映画化すると大抵の場合、小説ファンの反感と多くの鑑賞者失望を買う。しかし伊坂幸太郎作品の映画は稀にもその難から逃れているように感じる(少なくとも今までのところ)。

今回観た二本の内、『重力ピエロ』は以前本を読んでいたが、『フィッシュ・ストーリー』は未読。それでも両者ともに楽しんで鑑賞することができる作品であった。

まずは前者『重力ピエロ』――。
ストーリーは遺伝子を研究する大学生の泉水(加瀬亮)と、壁の落書き消しを営む春(岡田将生)という「兄弟」を軸として進んでいく。
二人の住む街で発生した連続放火事件を調べ始めた春は泉水を巻き込み、事件の真相に迫っていくが、その過程で「家族の秘密」が深く関わっていることがわかっていき......

この物語の大きなテーマは、正義とは何かである。後者とも繋がるこのテーマは作中でも云われるように、孔子の昔から論じられてきた、云わば人類の永遠のテーマである。したがって個人が一概に答えを出すことは到底なしえない。むしろ、私的報復の妥当可能性について、或いは心正しき者は罪を犯した親を親だからして庇うのか、親子の情をないものとして断罪するのかといった命題を、社会的正義と個人的正義感とを相互にすり合わせ、各々がその人生の中で常に自問することに意味があるのだろう。

ちょっと横道にそれたが、それでは映画の出来は、というと、十分楽しめる作品だった。
ぼーっとした印象を纏いながらも突如として大胆な行動をとる兄を雰囲気そのままに演じた加瀬亮や、生理的嫌悪すら催させる渡部篤郎の悪役ぶりは唯一リアルな存在感があるなど、配役・演技はなかなか満足できるものだった。

ただ、兄を社会人ではなく大学生としたことにより行動の現実味が薄れ、弟との親密感の所以は(逆説的だが)異父兄弟という特殊事情にあったという作用の微弱化をもたらしてしまった。また兄の一人称で語られるため、弟の苦悩を描ききれなかったということも指摘できよう。

しかしそもそもエンターテイメント映画に仕上げる目的であったのだろうから、これはこれで良かったのだろう。

――今日は疲れたので、ここまで。二本目についてはいずれ。

「TOKYO!」 (2008年/日・仏・韓)

このブログの開店休業状態も久しく、もはや更新を諦めたか失念したか、或いは主は逐電したか考えもされなくなったことだろう。
しかしそんな頃にフラッと更新されるのもこのブログの常と云えなくもないだろう。しかも時はお盆の頃。大抵の方々は漸く訪れた茹だるような夏日の下、レジャーとやらに勤しむか、私のように部屋でじっと(私の場合は“ずっと”だが…)身体を休めているものだろう。

しかし私は先頃、発起して丸ノ内まで足を運ぶ機会を得た。
商業施設はどこも人で賑わっていたが、一歩オフィス街に入ると打って変わって静寂に包まれている。それはいつもとは異なった東京の顔だった。

と云うことで、今回は新規な視点から望む「東京」とは――がテーマだ(前振りが長いな、と思われていた方々は御安心を。以下からは本編です)。

この映画は米・仏・韓を各々代表する映画監督が「東京」をテーマに撮ったオムニバス形式の作品だ。

トップバッターはミシェル・ゴンドリー。これまで「エターナル・サンシャイン」「恋愛睡眠のすすめ」「僕らのミライへ逆回転」等のファンタジックな作品を手掛けてきた監督だ。本作でもその例に洩れずファンタジーを描いたが、非常に現実的で少し恐ろしげだ。
主人公はインディーズ系映画監督を気取る青年(加瀬亮)の彼女(藤谷文子)。上京して友達の家に二人で滞在しているが、早く出ていって欲しいと思っている友達からの圧力と義務感から物件を探したり彼氏の映画用機材を運んだりと忙しい毎日を過ごしている。しかし自分自身は何かを成し遂げている訳ではない、という強い劣等感から彼女の身体は次第に…

まるで「ピノキオ」の寓話の逆だ。何か成し遂げたことの反照からでしか自分を定立できないと思い込んでいる現代人。自らの機能や役割だけが自分だと思う。まるで人間から物になることを望んでいるようだ。
しかしこの寓話の舞台として、東京は(そこに住んでいる者だから感じることなのかもしれないが)現実感を帯び、憂鬱だ。

二番手として登場するはレオス・カラックス。「ポンヌフの恋人」で絶賛を受け「ポーラX」等不安定で難解だが見応えのある作品を送り出していたものの、ここ9年間新作の発表はなく本作が復帰作となった。
「メルド」すなわち「糞」を意味するこの作品は、もはやそれ自体が偏見と見紛うほどの皮肉なものだ。
突如として下水道から這い出てきた“怪人”が“常人”には理解できない狼藉を働き、果ては地下深くに眠る旧日本軍の弾薬で“罪のない人々”を殺傷しだし…

という破天荒なストーリーながら、歴史・罪・特異等の様々なものを隠蔽する性質、異物を排斥する性質、社会現象化したがる性質、無議論的性質といった「日本」を痛烈に批判していると云えよう。まさに「臭いものには蓋をする」日本の内奥を垣間見るのは、パロディとして笑えるほど気楽にはなれないものがある。

トリを飾るのは韓国の実力派監督ポン・ジュノ。「殺人の追憶」や「グエムル」で高い評価を得ているが、私個人は彼の作品を鑑賞する機会に巡り会わなかったため今回は非常に楽しみであった。
そう遠くない未来、10年来引きこもりとして生活していた男(香川照之)がピザの宅配に来た女の子(蒼井優)に一目惚れをして外界へと踏み出していく、というストーリー。

結論から云えば、この話が一番“しっくり”くるものだ。暇があれば引きこもって一人自室で趣味に没頭する性質の私自身にとって身に積まされる思いがしたということもあるが、なにより仮想であれ未来であれ日本の普遍的(あるいはそうであって欲しい)部分が上手く捉えられていたからだろう。
木材や畳の香り、じめっとした陽の当たらない廊下、うっそうとした緑、眩しい日差しの中で霞む坂道――これは同じアジア人の感覚でなければ描けなかっただろう。
日本の夏。久しぶりに暑さに負けず、外を歩いてみたくなった。


「舞台より素敵な生活」(2000年/米)

半端なく映画は観ているものの、ブログは全く更新する気力にならず、もうこのブログの筆者は遁世してしまったのではないかと勘繰られてブログを消されかねない時期にまで達してしまったような気が……
しかしそんな不穏な影など気にもせず、なにごともなかったかのように更新をふらっとしていこうと思います。なにか名作についてここに記載することで華々しくカムバックできればよかったのだが、まぁ、振り返ってみれば割と世間ではB級と目されているような作品ばかり紹介しているこれまでの例に従って、記録されなければ記憶から徐々に追いやられていきかけない作品について。

最近監督をしなくなり、盟友ポール・ニューマンも逝ってしまい、すっかり寂しいロバート・レッドフォード(以下R・R)が製作総指揮を務めた微笑ましいホーム・コメディである。R・Rが関わる映画と云えば、直接にせよ間接にせよ政治的なメッセージが込められているものと云う印象があるが、本作はその意味で例外と云えるだろう。しかしそれは功を奏したようで、<現代的な家族>と云うモチーフを、皮肉と希望を込めた温かいコメディとして上手に料理しているように思われる。

劇作家のピーター(ケネス・ブラナー)は、新作戯曲の上演を前にしてスランプに陥っていた。また私生活では妻(ロビン・ライト・ペン)に子供を熱望されて、大の子供嫌いとしては辟易する一方。そんな中、更に悪いことに、むかいの家に母子家族が引っ越してきて、偶に少女を預かることになってしまい……

あらすじを追っていくと、「不運な主人公」「子供のいない夫婦」「問題アリの隣家の子供」と云ったいやでも目に付くような火種の数々が様々な問題を(予想通り)起こしながらも、どうせ安易にもハッピー・エンディングになるのでは、と嗅ぎつけられることだろう。
しかしこの映画の強みは、いわばこの種の映画にありがちな微笑ましい空気に支配された逸話の羅列と感動的なラストをストレートに売りにしていないことだろう。すなわち、多数の世評が「中途半端」と感じ、かつこの映画自体をそう判断してしまった原因としての表面的な<舞台>の物語には終わらない、重層的な仕掛けこそがこの映画のポイントである。
この重層的な構造を理解いただくうえで最も忘れて欲しくないのは、映画の冒頭部分である。冒頭場面では『How to Kill Your Neighbor’s Dog』という新作舞台が主人公の手によって発表されている。そう、この映画はひとつの<舞台>の発表なのであり、この映画で主に私たちが楽しむこととなるのは当該<舞台>なのである(したがって先の批評もこの<舞台>について終始するものが多い)。実に気の利いた趣向であり、この趣向ゆえにケネス・ブラナーの配役もうれしい。
そしてもちろん内容とて愉快だ。他人はもちろん、親密なはずの夫婦の間にも実は存在している微妙な距離感を軽妙に描き出し、現代の<舞台>的な面白さをもたらしてくれる。小品としては期待通りの良作と評価されるのが妥当であろう。

「グッドナイト&グッドラック」 (2005年/米)

今回はハリウッドに映画の本質を思い出させてくれたかのような、現代政治史におけるアメリカの汚点をリアルに描ききった良作を紹介したい。この映画は当時大統領であったアイゼンハワーすらもその名を恐れたと云う悪名高いマッカーシー上院議員に真っ向から立ち向かっていき、彼の恐怖政治に支配されたアメリカに一筋の巧妙をもたらしたCBSキャスターのエド・マローを、緊迫感漲るマッカーシーとの対決を軸に描いたものだ。

まずこの役でアカデミー主演男優賞にノミネートされたデヴィッド・ストラザーンの演技が目を引く。キャスターにもかかわらずマイク恐怖症で、マイクの前に座ると冷や汗をかいて神経質に身を硬くするが、鋭い眼光は失わないエド・マローを忠実に模写している。片時も煙草を手放さず、放送終了時にチビた煙草を指の先に挟んで「Good night & Good luck」と締め括る姿は痺れるほど格好良い。

そもそもマッカーシズムとは、アメリカがアメリカたる、そのアイデンティティーに端を発し、「アメリカ的価値観」が空前の(しかし不健全な)栄光をもたらしたことによりアメリカの人々の夢が現実となった。そのまま「アメリカ的価値観」は世界に浸透していくものと誰もが考えた矢先に、異分子としての共産主義国という巨大な敵が立ちはだかり、冷戦へと突入すると瞬く間に甘美な夢も悪夢に変わり、そこから生まれる深い恐怖心はアメリカ国内の異分子へと矛先を向けていったと云うプロセスを踏んだものである。

このようにマッカーシズムの本質は語られるところなのだが、この映画は社会の狂乱による相互増幅性とでも呼べる現象をむしろ描くことをせず、メディアにおける緊張的対決を徹底的に描き込むことで焦点がぼやけてしまう難から逃れている。
特に緊迫した状況というものを非常に上手く演出している。当時のマッカーシー上院議員の実際の映像をふんだんに使い、それは云うまでもなく他の如何なる手段よりも克明に彼の狂気を浮き彫りにする。そしてこの映像と齟齬を生じさせないように映画全体をモノクロにしたのも正解だろう。これはまた映画に「マッカーシズムは二度と繰り返してはならない」と云う、メディアないしは民主主義社会に対するメッセージを発する上で、マッカーシズムの過去性を強調することに成功しているし、一方でマッカーシズム横行前の、『第三の男』のような古き良きアメリカ映画の品格がこの映画に付与されているかのような印象を受ける。

実際のエド・マローがメディアにおける中立の姿勢を崩すまいとの努力を費やしたのに対して、この映画はメッセージを強調したい製作者の感情が映像構成に表れてしまったと云う難点が見受けられるものの、其れを差し引いても十分秀作と云える映画である。監督ジョージ・クルーニーのリベラリズムの真髄だ。

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晋撰堂

Author:晋撰堂
晋撰堂は京極夏彦の京極堂シリーズにかぶれていた頃に命名。
自分の名前にも由来していますが、文化的娯楽作品から気が向いたものを取り上げてレビューを書いていこうと思います。たまに雑記と称して日々の雑念も放出します。
ただ問題は、ほとんど更新をしないということ。休眠状態を常としている現状ですが、もっと気軽に書けるよう努力してみようかと思ったのも、本日の気の迷いかもしれないです……

コメント、リンク等も何卒御気軽に。

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